2008年12月21日日曜日

フェノッリオ  いまなぜフェノッリオなのか?




いまなぜフェノッリオなのか?

――叙事詩の精神を体現した作家フェノッリオ試論――

花野秀男

西暦二〇〇〇年も〇五、〇六、〇七……年と過ぎてしまえば、世界で何事が起ころうとも、私たちは日々の日常性にまま埋没して、年号それ自体には何の感慨も湧かない。むしろいまとなっては単に年代が一九〇〇年代から二〇〇〇年代に変わることに、いったい何の差異を見出していたのかと、訝しささえ覚えてくる。けれどもドキュメントの中で消去し忘れた一つのファイルを開いたとき、二〇〇〇年代に入って私たちが、そして私が確実に喪ってしまったものがあることに卒然と気がつかされた。それを自他ともに確認するために、多少ためらいはあるものの、この埋もれた試論をそのまま左に載せる。そしてさらに左に、今回まったく新たに翻訳し直した『私的な問題』(第三稿・決定稿)を載せておく(二〇〇五・八・二五)。




あと一年たらずで西暦二〇〇〇年、つまり私たちの二〇世紀は終わる。人類がこれからもいわゆる発展を続けてゆくにしても、あるいは突然、そう、かつて地球上に繁栄を極めた恐竜たちのように、突然絶滅してしまうにしても、それはもう私たちの子孫に残された問題と課題に等しい。まだまだし残したこと、出来るわずかばかりのことはあるにしても、私たちとしてはおのれの過ごした二〇世紀が果たしてどんな時代であったのか、検証して、残すべきものは残して後世に託すしかない。では二〇世紀とはどんな時代であったのか?
前半に二度もの世界大戦とロシア革命、後半も朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、中東戦争……と、戦後生まれの私たちにとっても、それは疑いもなく戦争の時代であった。歴史はむろん、社会や文化、文学、人生も戦争との関わりなしには語れない。ことに二度目の大戦は人類に深い爪痕を残した。ドイツ人がユダヤ人を始めとする何百万人もの人びとをシステマチックに大量殺戮したことである。髪の毛は鬘に、死体の脂は石鹸に、灰は肥料に利用するほどの凄まじさだった、あるいは人間の尊厳に対して爬虫類的な冷やかさであったというべきか。しかもこの絶滅収容所を頂点とするラーゲル網が、いまも世界的な発展を続ける原発などドイツ式重工業の産業基盤に深く組み込まれていることは重要である(いまのアメリカに見るように、その根底において彼らのラーゲル精神が清算されたと考えるのは早計ではあるまいか。)*。ドイツの版図が拡大するにつれて当時のヨーロッパは収容所大陸と化していた。

*ラーゲルからの奇蹟の生還を遂げたイタリア人作家プリモ・レーヴィは、その著書『これが男か』劈頭の詩でこう歌っている。

おまえたち、ぬくい家のなかで
安全に暮らして、
晩に帰れば
熱い食事と親しい顔々が待つ、者たちよ、

考えに考えよ、これが男か
泥のなかで働きぬいて
片時も安らぎを知らず
パン半分のために闘い
シ、またはノと答えたばかりに死んでゆく者が。
考えに考えよ、これが女か、
髪はなく、名前はなく
もう思い出す力を無くして
虚ろな眼に、冷えきった身体の芯の
冬の蛙みたいな者が。

思いを凝らせ、これは実際にあったことなのだ。
おまえたちに命じておく、これらの言葉を、
心の奥に刻みこめ。
家におるときも街中に出かけるときも、
寝るときも起きるときも、
子供たちにくり返し言いきかすのだ。

さもないとおまえたちの家は解体され、
病でおまえたちは動きがとれず、
子らはおまえたちから顔を背けることだろう。

では、そのころ私たち日本人はどうしていたのか? 中国を侵略し、一九三七年には南京大虐殺を引き起こしている。一九四〇年には日独伊三国軍事同盟を結び、太平洋戦争に到る。疑いもなく間違った側について戦っている。捕虜を「丸太」と称して人体実験をくり返した七三一部隊の例ひとつを取ってみても、私たち日本人がドイツ人と比べてより冷血でなかったとはとても言えない。招集されたから、命令されたから、で済む問題ではない。
では、イタリア人たちはどうしていたのだろう? 一九四三年七月にムッソリーニを逮捕、九月に連合軍と休戦、イタリア軍は崩壊し、ドイツ軍による占領とドイツ傀儡の新ファシスト政府の成立、これに抗して北イタリアの各地でパルチザン戦争が起こる。そう、イタリア人たちは一九二二年のローマ進軍以来ファシズムのもとに一九三五年にはエチオピア侵略、三九年にはアルバニア併合と、ドイツ人や日本人に負けず劣らず間違った側について戦っていたのだが、四三年の軍崩壊後は民衆のレベルで、個人のイニシアチヴのもとに正義と自由のために戦うことになる。〔『イタリア抵抗運動の遺書』冨山房、参照。〕どうしてこのようなことが可能だったのだろうか? 私たち日本人やドイツ人にしても銃口の向きを変えて、民衆を死に追いやる者、体制を翼賛する者たちと戦うことなど思いも寄らなかったろうし、何よりも抑圧を生む構造をおのれが支えていることにあまりにも無自覚であった。彼らイタリア人だって、人間として生きるぎりぎりのところで敢然と起ち上がったわけだが、こうした経験は私たち日本人の戦争体験からはまったく欠落している。いかなる歴史的情況のもとにいかなる行動をとるべきか、不幸にも現実に身近な実例がないならば、せめて読書体験を通して、それもただ観念的にではなくてたとえ小説中のものであれ生活の実感を通して、ひとつずつ考えてゆく習慣を身につけておくのはいつだって大切なことだ。一見、平和な日本でもいつどんなかたちで個としての選択を迫られ、行動が必要となるかも知れないのだから…… パルチザン戦争をテーマとしたベッペ・フェノッリオの小説群を、とりわけ長編小説『パルチザン・ジョニー』と中編小説『私的な問題』を、いまこのときに日本の若い読者たちに薦める第一の理由がここにある。
そして第二の理由は読書体験は、とりわけ若い人たちにとっては、一冊の書物がその人の、その後の人生を変えることがままあるし、そのことが本を読む理由の一つでもありうるのだが、ベッペ・フェノッリオの小説はそうした書物のひとつであることだ。
第三の理由はパルチザン戦争を扱った書物のなかで、いまやフェノッリオの小説は古典中の古典になっているという事実だ。ホメーロスの『オデュッセイア』、メルヴィルの『白鯨』を挙げるまでもなく、いつの時代にも、古典を読むことは人間に生きる勇気を与えてくれる……
思えば、《ヨーロッパ文学の本流をなすイタリア文学、そのイタリア文学の伝統の本質をなす叙事詩の精神》を、この二十世紀に見事に体現してくれた作家こそは、ベッペ・フェノッリオであったのだ。




さて、ベッペ・フェノッリオとは、どのような作家だったのだろうか? 北イタリアの北西の大都会トリーノと海港ジェーノヴァ、それにむしろフランス国境寄りの楔形台地上の大きな町クーネオを結ぶ三角形にほぼおさまる極貧の丘陵地帯ランゲの中心地アルバ、ポー川の支流ターナロ川が豊かに流れる岸辺の小都市アルバに、一九二二年三月一日にベッペ・フェノッリオは父アミールカレ、母マルゲリータの間に、肉屋の息子として生まれた。年子の弟ウォルターとは性格も容貌もまったく異なっていたが、近所の少年グループ同士の喧嘩ではいつも互いに助け合っていた。十一歳年下の妹マリーザを非常によく可愛がった。一〇〇メートルを十二秒台で走るスポーツ少年でサッカーとバスケットボールに熱中した。本好きで、英語をマスターするや、ポケット版のシェイクスピアが愛読書となった。……。
いまもエイナウディ出版社の文書館に残るイータロ・カルヴィーノ宛の一九五二年二月九日付の手紙では作家自身がずっと簡潔に述べている。
《略歴についてなら、ぼくはあっという間に片づけられる。三十年前にアルバで生まれ(一九二二年三月一日)、学生(中等=高等学校、ついで大学、むろん卒業はしなかったが)、王国軍兵士を経てパルチザンになった。現在は、あいにくと、ある名高いぶどう酒醸造会社で代理人をしている。思うに、これですべてを尽くしている。充分だろう、違うかい? きみは写真も一枚くれと言っていたが。ぼくは写真を撮らなくなってから、かれこれ七年になる。》
とはいえ若干のフォローはやはり必要だろう。フェノッリオの第一作『アルバの二十三日間』はエイナウディ出版社からエーリオ・ヴィットリーニ編集の〈ジェットーニ叢書〉の一冊として一九五二年に出版された。その二年後の五四年には同じ叢書中に中編小説の傑作『破綻』が出版されている。当時、その作家としての真の資質に理解を得られなかったフェノッリオは、一九五九年にはガルザンティ出版社から『春の美神』を出版しているけれども、一九六三年二月十八日に唐突に、まさに彗星のように逝ってしまう。それゆえ、彼の作品の大部分は死後に出版され、その名声も死後に訪れた。文字どおり名声の最中に自殺した同郷の作家パヴェーゼと較べても、フェノッリオは作家としては不遇であった。一九六三年に同じくガルザンティ出版社から『銃火の一日』と『私的な問題』(第三稿)が死後出版された。一九六八年には大冊『パルチザン・ジョニー』がエイナウディ出版社から刊行されて、欧米の読書界を一気に沸かし、フェノッリオの作家としての位置は小揺るぎもしないものになった。あとはいずれもエイナウディ出版社から一九六九年『血の土曜日』、一九七三年『第一次大戦下のあるフェノッリオ』と出版されて、一九七八年には今回の翻訳の底本とした『ベッペ・フェノッリオ全集』が同社から刊行されている。
日本にあっては、フェノッリオは目下、埋もれた作家に等しく、このままでは、その素晴らしい中編小説『私的な問題』や、もはや古典的ともいえる長編小説『パルチザン・ジョニー』も、幻の名作と呼ばれることになるやも知れない。




パルチザン戦争を戦い抜いたベッペ・フェノッリオは戦後直ちに英語で執筆を開始し、特徴ある次の一文で始まる『原(Ur)パルチザン・ジョニー』を短期間で書き上げた。
《Tarzan and Set did never come back. While firing from right to the houses, Set discovered and hanging foot had been hit from a lost bullet of theirs, and cut knifelike into its whole length. And Tarzan had shouldered him and drawn him to the nearest farm to have a cart attached and them both driven away to safty and cures.
〔ターザンとセットは二度と帰って来なかった。右手から家に撃ち込んでいるあいだに、片足がだらりとぶら下がって、味方の流れ弾に当たったその足は上から下までナイフで切り裂かれたみたいなのに、セットは気がついた。そこでターザンが彼を担いで最寄りの農家まで引きずってゆき、荷車に馬か牛を繋いで安全な場所までいって手当てを受けさせようとした。〕》
《ところがファシスト軍の救援部隊が早くも現れてセットの流した血の痕を辿って、麦打ち場で安堵の息をついたばかりの彼ら二人に襲いかかり、たちまち二人を引き裂いた。ターザンはT字路の家まで引き戻されて道端で銃殺された。しかしセットのほうは応急の手当てを受けてタバコまで与えられて一目で徴発されたと分かるマットレスの上に寝かされて、連中のトラックの一番よい場所に載せられた。拾い集めたパルチザンたちの死体が一緒だったという。けれどもセットは胆の坐った、徒な望みを育まない男だった。カネッリに着くや、夜更けに、教会墓地に引き出されて囲い壁に凭れかかされ、無事だったほうの片足で立ったまま銃殺された。》
《そして恐ろしいニュースが護衛隊のあいだに野火のようにぱっと広まった、カネッリの目抜き通りのショーウィンドーに明々と明かりを灯して、カネッリのファシスト軍はノルドの父親の亡骸を晒しものにしている。身許書きと罪状書きと懲罰文を記したカードまで縫いつけて、と。そして護衛隊員たちは丘から丘へ、ファシストの堅塁への即刻の総攻撃と、その抹殺と遺骸のひきとりを求めて、叫び交わしていた。叫び声と激昂があたりを包み、マンゴに引き揚げてきた男たちはいまさらのようにその日一日の途方もない疲れに打ちのめされて、戦闘と危険に飽き飽きしていた。ノルドは喪と悲しみの嵐に見舞われて、当座の指揮権を譲り渡し、そのボディーガードたちが勝手に何もかも取り仕切っているみたいだったから、どの丘も稲妻の光る混乱のなかで息をひそめて待っていた。》
《そしてマンゴにはギアッチとその部下たちへの一片のメッセージが届けられただけだった。その中で、ノルドはおのれの父親の死には触れないで、その日の渋い戦い振りと不屈の攻勢に讃辞を寄せて、彼らは英軍ミッションの讃歎の眼差しのもとに戦い抜いたのだ、と述べていた。
ジョニーの心臓がこの結び近くの二語に鼓動を止めて、彼は濃い藍色の空に燃えるように赤く稜線を浮き立たせた真向かいの丘々に目を向けて、あの上のどこかに彼らはいるのだと思った。そして次の日の午後にはノルドの新しい専用車が高馬力の静けさでマンゴに滑り込み、丸く見開かれたマンゴの男たちの目やギアッチとフランコの郷愁を誘う眼差しのもとで、取ってつけたように恭しくなったボディーガードたちがドアを開けてジョニーを車中に請じ入れた。》
この作品は他の多くの遺稿と同様、作家の死後に発見された。現在は『ベッペ・フェノッリオ全集』第一巻第一分冊に収められ、見開き右頁が英文の本文、左頁がブルース・メリーによる対訳のイタリア語文である。〔後に詳述する機会もあるかと思うが、このイタリア語訳には筆者は必ずしも満足していない箇所がいくつかある。〕
物語的にはノルドの父親の戦死とジョニーの死が暗示される激戦の地ヴァルディヴィッラ〔一時期、パルチザンたちの〈ルナパーク〉でありメッカであったから、当然フェノッリオの作品中でも主要な舞台の一つであるサント・ステーファノ・ベルボ、チェーザレ・パヴェーゼの生地サント・ステーファノを訪ねたなら、ベルボ川に架かる橋に差しかかったころに右手背後に見えるピラミッド状の大きな丘のT字路の集落がそれである。〕で始まり、つまり長編小説『パルチザン・ジョニー』の最終場面から始まり、パラシュート降下した英軍ミッションを嚮導したジョニーが──彼は死地を脱していたのだ──初めてランゲの地を離れてターナロ川の対岸のモンフェッラート各地を転戦し、いくつか興味深いパルチザン部隊と戦闘を共にする。パルチザン小説のなかで、恐らくもっとも魅力的な女性兵士とジョニーが出会うのも本書のなかでのことである。




なぜフェノッリオは英語で執筆したのか? 少年時代から英文学と英国史、ことにシェイクスピアやマーローやイェイツやT.H.ロレンスなど、それにクロムウェル率いる清教徒軍兵士に心酔していたこと、パルチザン戦中も英国ミッションと関わる任務を帯びたこと、戦後も会社の仕事で英国人と文通していたこと、英国人風に暮らし、英語で読み、英語で(おのれ自身に)話し、英語で考えていたから、執筆も英語が自然であったと考えるのが一般的だが、ここにはフェノッリオのもっと強固な意図が働いていたように思える。何よりもそれはフェノッリオの作家としての決意に関わる事柄だったのだ。
周知のようにベッペ・フェノッリオはアルバに生まれることによって、同じランゲ地方のサント・ステーファノ・ベルボに生まれたチェーザレ・パヴェーゼと同郷の作家になった。パヴェーゼは幼年時代をサント・ステーファノ・ベルボで過ごしたのちは、大都会トリーノに暮らし、夏ごとに丘を訪れ、南イタリアのブランカ・レオーネに流刑されたのち、戦時中は丘に逃避し、やがて丘を神話化し、名声の頂点にあってトリーノ駅前のホテルで一九五〇年夏に自殺した。この十四歳年上の同郷作家を、フェノッリオは強烈に意識したに違いない。同じく英米文学を愛したパヴェーゼのエピゴーネンと目されるならば、ランガローロ=ランゲの丘の人間、権威と権力に屈しない不屈の男たち、丘々に生きるフェノッリオという姓の男たちのひとりとして熾烈なパルチザン戦争を、厳しい最後の冬を自ら戦い抜いた新しい世代であるおのれが作家として立つ理由がなくなるからだ。問題は文体だった。戦後巷に溢れたいわゆる抵抗文学の海から抜きんでて、しかもパヴェーゼのあの禁欲的なまでに抑制された端正な文体とは異なる、スピーディで横溢し、しかも確固たる文体を確立しなければならない。
そのためにはヴェルガに発するヴェリズモから、ネオリアリズムの作家たち、ヴィットリーニ、パヴェーゼ、カルヴィーノに連なる系譜をいったん断ち切らなくてはならない。だからこそ、フェノッリオは英語で第一稿を執筆し、イタリア語に翻訳し直しながら、苦心惨憺して第二稿、第三稿と推敲を重ねたのではなかったか? そうして自らの新しい作品言語を構築していったのだ。それは彼にとってパルチザン戦争に勝るとも劣らない労苦を強いたことだろう。だからこそ彼は、戦後の空虚に、虚脱に、あえてそうした困難な創作の道を選んだのだ。




《ランゲ一帯に雨が降っていた。あの上のサン・ベネデットの丘で、ぼくの父は地中に滲みこむ雨水に初めて濡れそぼっていた。
先週の木曜日の夜に亡くなって、ぼくらは日曜日に二つのミサの合間に父を埋葬した。ぼくのパドローネが三マレンゴを前払いしてくれて幸運だった。さもなければ、家中を引っ掻き回してもぼくらには司祭に払う金も棺代も親類に出す食事代もなかった。墓石はもっと後で、ぼくらの暮らしがいくらかでも息をつけるようになったときに建てるつもりだった。》
ここで彼の最高傑作のひとつ中編小説『破綻』を初めて読んだときの奇異な体験に触れておかないわけにはゆかない。極貧の家からこれも貧しいが自作農をめざす折半小作農に年季奉公に出された少年アゴスティーノが主人公であり語り手であるこの小説は悲しく、どこまでも悲しいなかに、背後に、救いはどこにもないのに、目には見えないどこかに清らかな光が漂っている。
《しかし、ベネヴェッロの高みから低ランゲにトビーアの農場を見た瞬間に、そんな諦めは跡形もなく消え失せてしまった。ぼくは父を埋めてきたばかりだというのに、もうおのれの惨めな生活をそっくりそのまままた始めようとしていた。父親の死さえもぼくの宿命を変えるのに役立たなかった。そういうことなら、ぼくは道をすぐ右に折れて、ベルボ川の岸辺までずんずん下って、たっぷりと深い淵をそこに探すこともできたのだった。》
その悲しみはむしろ、アゴスティーノのおのれの人生に対する行き場のない怒りであり、ランゲの土に生きる人間をどこまでも追い詰める〈破綻〉に対する透明な怒りである。
《しかしぼくは真っ直ぐに進んだ。決して幸運だったためしのない母のことと、ぼくと同じ罰を背負って神学校へ戻っていった弟のことが、たちまち心に浮かんだからだった。》
その悲しみはむしろ、母と弟の俤をアゴスティーノの心のなかに映し出して、怒りのあまり、ベルボの淵に身を投げるがままにはしておかない。
《ぼくはマネーラの居酒屋に立ち寄った。休むためというよりはむしろパヴァッリオーネに早く着きすぎて仕事を背負いこまないためにだった。そんな目に会えば、ぼくは何か途轍もないことをしでかしかねなかったから。》
その悲しみはむしろ、アゴスティーノに、怒りを撓めて、頭を働かすことを促す。
《トビーアと一家の人たちはぼくを病人みたいにいたわってはくれたが、それも一日だけのことで、その翌日からはまたぼくをこき使って、やっと日が暮れてみればその一日ほどに働きずくめだったことはないとぼくには思えたくらいだった。それがかえってぼくにはよかった。しっとり夜露に濡れながらおまえが夜っぴて麦穂を刈り取って山にした明け方には、寝に帰らずに、むしろ陽が赤く照らしてくれるまでまた刈りつづけたほうが身体も温まるし疲れも抜けるぞ、というのにもやや似て、それがかえってぼくにはよかったのだった。》
その悲しみはむしろ、ランゲの土に生きる人間をどこまでも追い詰める〈破綻〉に対する透明な怒りであり、やがてアゴスティーノとフェーデの清らかな愛さえもが〈破綻〉に打ち砕かれるとき、どこまでも澄み切った悲しみに変わる。
《ぼくは棍棒の最初の一撃をくらった仔牛みたいなままだった。》
──思えば、この小説は父親の死で始まり、神学校のなかでの飢えと寒さに起因する病に斃れた弟の死で終わる。あの清らかな光は、アゴスティーノの清らかな心のなかだけに、あったのかも知れない。あるいはそれはランゲの丘々とベルボの谷、その無数の死から漂ってきたのかも知れない。読みすすむにつれて、北イタリアの工業都市トリーノから直線距離にして一〇〇キロ内外に拡がる丘陵地帯の高低ランガ、つまりランゲが、いつしかヴェルガのシチーリアの荒れはてた海辺に、海原に、荒涼たる野辺に重なりあっている。ここはランゲなのだ、なんども私は頭を振っておのれに言いきかさねばならなかった。
──生前のフェノッリオに会って、「きみはパヴェーゼの影響を受けた」と言ったら、彼は返事もしなかったことだろう。
しかし、「きみはランゲのヴェルガだ」と言えば、笑って「いや、ぼくはランゲのフェノッリオだよ」と、答えたかも知れない。




ベッペ・フェノッリオの作家としての資質そのものにも、もっと着目すべきであろう。
彼は天来のストーリテラーであり、大長編作家であった。
『春の美神』(第一の遺稿)→『パルチザン・ジョニー』(第一の遺稿)→『原Urパルチザン・ジョニー』→『血の土曜日』と順を追って読めば、ジョニーの学生時代から軍隊時代、ローマからの脱出、帰還、フランス軍団離散兵パルチザンへの合流、ジョニーの〈赤〉のパルチザン時代、〈青〉のパルチザン時代、英軍ミッション嚮導の時代、主人公はエットレに変わるが、パルチザン戦争の成果を無にした戦後社会への適応のむずかしさ、犯罪への傾斜、更生、そして不慮の死と、大河小説を読む眩暈と喜びに浸ることが出来る。
思えば、今回は訳出していないが、『私的な問題』(第一の遺稿)の緊迫感溢れる描写の背後に流れる悠久の時の流れには、何かパステルナークの『ドクトル・ジバゴ』を思わせるものがある。ここに登場するフールヴィアの、秘密の婚約者ジョルジョを銃殺から救うべく、交換のファシスト捕虜を求めて、パルチザンの丘々に発とうとする、その健気な姿には、同じ小説の第三稿を読み親しんだ読者はまさに、真実の丘の別の斜面を垣間見る思いがするにちがいない。筆者は『全集』中の『長編小説の断章』はむしろ『原Ur私的な問題』と捉えるべき作品と考えているから、『長編小説の断章』(=『原Ur私的な問題』)、『私的な問題』(第一の遺稿)、同(第二の遺稿)、同(第三稿・決定稿)と読みすすめば、ここにも『パルチザン・ジョニー』と並びうる長編小説が、しかも直線的な連なりではなくて、多面的な構造を持って存在していたことが分かる。
パルチザン時代の死と背中合わせの過酷な生活、その直後からの激しい創作活動、そしてついに病に倒れたのちも決して手放さなかったタバコゆえか、肺疾患と、喉、気管支の癌のために唐突に訪れたフェノッリオの早すぎる死(一九六三年二月十八日)が、いまも惜しまれてならない。




今回ここに全訳した『私的な問題』(第三稿・決定稿)〔──愛の追跡者パルチザン・ミルトン──〕さえもが、作家死後の一九六三年に初めて出版された。このときの衝撃を、イータロ・カルヴィーノはその長編小説『蜘蛛の巣の小道』(白夜書房)に寄せた序文中で次のように語っている。
《しかし、最初の断片的なあの叙事詩の道を辿りつづけた者もありました。彼らは概して最も孤立していて、そういう力を保つにはあまり“壺に嵌まって”いない人たちでした。そして誰よりも孤独な男が、みなが夢見た小説を、もう誰も期待していなかったときに書き上げました。ベッペ・フェノッリオのことです。彼はそれを書くに到ったものの、完結まではこぎ着けず(『私的な問題』)、四十代の働き盛りで、出版を見ずに世を去りました。私たちの世代が書きたかった本が、いまやここにあります。そうしてわれわれの仕事は完成し、ひとつの意味を持つに到りました。いま初めて、フェノッリオのお蔭で、ある季節が終わったとわたしたちは言えるのですし、いまこそそれが真に実在していたとわたしたちは確信できるのです。
つまり『蜘蛛の巣の小道』から『私的な問題』に至るあの季節があったのです。
『私的な問題』は愛に満ちた錯乱と『狂乱のオルランド』のような騎士道風の、追跡の幾何学的な緊張で構成されており、同時に〈抵抗運動〉がまさにそのあったとおりに、内と外から描かれています。これはかつて書かれたことがないほど真実味の籠もった〈抵抗運動〉の物語で、忠実な記憶によって何年間も澄み切ったままに保たれ、しかも倫理的なあらゆる価値が言わず語らずであればあるほど一層強烈に書き込まれています。そして感動や、激怒もまた同様に。しかも、これは風景の書物です。そして迅速でみな生々しい人物たちの本です。正確で真実の言葉の本です。そしてまた、不条理で神秘的な書物です。そこでは、追う者は、別の者を追うために追っているのであり、その別の者はさらにまた別の者を追うために追われているのであって、真の理由が明らかにされることはないのです。
私が序文を付そうと思ったのは、実はフェノッリオのあの書物にであって、私の本にではありませんでした。》




しかし、死後にこのようにカルヴィーノに賞揚されようと、フェノッリオは無念であったことだろう、それだけの経緯があったのだから。ともあれ、生前に出版されなかったお蔭で、いまは第一の遺稿、第二の遺稿、第三稿と徹して目を通すことが出来、『私的な問題』がカルヴィーノの的確な指摘よりもさらに広い拡がりを持つゆたかな作品であることを、私たちは知っている。
《閉めのこした口、脇にたらした両腕、ミルトンは、アルバの町へと徐々に高度を落としてゆく丘の上の一軒家、フールヴィアの別荘を見つめていた。》
この第一行で始まる本書『私的な問題』第三稿は、斥候帰途にフールヴィアの別荘を目にした孤独なパルチザン、ミルトンの回想で始まる。
《ほら、寄せただけの鉄格子の門、その先の小径ぞいに四本の実桜の木、ほら、黒ぐろと光沢のある屋根よりもずっと空高く梢が揺れている二本の山毛欅の木。どの壁も相変わらず真っ白で、染みや烟の痕もなく、ここ数日間の豪雨にも変色していなかった。窓はみな、見るからに久しいあいだ、小鎖で閉じられていた。》
《……。四二年の春にはサクランボがなんて見事になったことだろう。フールヴィアは彼らふたりのためにサクランボを摘もうとこの木に攀じ登った。……。いちばん輝かしく熟れたサクランボを摘むんだといって、彼女はこの木に腕白小僧みたいに攀じ登って、……。》
別荘管理人の女からフールヴィアがジョルジョと逢引していたと聞かされたミルトンは、真実を確かめにジョルジョを探しにゆく。ところがジョルジョは深い霧のなかでファシスト軍の巡邏隊と遭遇し、捕らえられてアルバの町で死刑宣告を受ける。どうしても真実を知りたいミルトンはジョルジョと交換するために、〈青〉の部隊には払底していた捕虜を求めて〈赤い星〉の部隊を訪ねるが、いない。それならば、自分の手で、ファシスト軍兵士を一人捕虜にしようと、〈黒シャツ旅団〉の牙城カネッリへ向かう。途中、サント・ステーファノ・ベルボの村を窺うが、折から来襲した敵部隊につけいる隙はない。結局、カネッリで一人の軍曹を捕虜にするけれども……
《流れるようにひっそりと一匹の蛇にも似て、彼はアカシア林の外れめがけて這っていった。匍匐することでミルトンは、進みくる軍曹に五秒間先んじた〔……。〕衝突は数学的に小径と街道の合流地点で起こるだろう〔……。〕》
《軍曹の指が恐ろしい音を立てながら項から解けた。両腕が白い空に羽ばたいた。〔……。〕男は横っ跳びに、路肩めがけて飛んだ、しかも身体はすでに下へダイビングするなかで弓なりになっているように見えた。「ノー!」と、ミルトンは叫んだが、まるでその叫び声が引金をひいたかのように、コルト拳銃が発射した。〔……。〕「ノー!」と、ミルトンは叫びながら、あの男の背中を貪ってゆく赤い大きな染みを狙って、また発射した。》
ジョルジョを救う切札となるべき敵の軍曹を失ってしまったミルトンは疲労と絶望の果てに、豪雨のなか、再びフールヴィアの痕跡を求めて、アルバの丘の上の別荘に向かう。
そしてそこでファシスト軍と遭遇する。飛びくる弾雨のなかを丘から谷へと身を躍らせ、弾幕のなかを川から野へと疾走するミルトン。
《だが、思考は外からやってきて、石投げ器から放たれた飛礫みたいに彼の額を直撃した──ぼくは生きている。フールヴィアよ。ぼくはひとりぽっちだ。フールヴィア、まもなくきみがぼくを殺すのだ!〔……。〕やがて彼の前面に森が立ちふさがって、ミルトンはその森にまっしぐらに突き入った。彼が木蔭に入ったときに、木蔭は堅く閉ざされて、壁をなすかのようであった。そしてその壁から一メートルのところで彼はくずおれた。》




『パルチザン・ジョニー』(一九六八年版)がぼくの心を捕らえたのはいつのことだったろう? ぼくはまだ学生だったのではないだろうか? 夢中になって読んで、三七〇ページあまりを一気に読了してしまった。あんなに夢中になったのは、浪人生時代にペンギン版で読んだ『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』以来のことだった。『私的な問題』は全共闘時代に読んでその文学的な豊穰さと深い問題性、それにまさに私的な理由で、いつか必ず日本語にしようと心に決めていた。(p.s. 真っ白い小さな雲よ届けてよこの悲しみを亡きあのひとに  昶
『破綻』はあんなにも短い中編小説が辛くて──たぶん幼い頃の山村での思い出に俄かに襲われたためかも知れないが──読みきれずにいた(もちろん何年か後に、改めて読みおえたときには、最も好きな一書のうちに入っていた)。そのころに『パルチザン・ジョニー』を読んで、フェノッリオが紛れもなく大作家であることを確認できたのは大きかった。『日本読書新聞』にパルチザン・サガとして紹介記事を書いたのは前出『蜘蛛の巣の小道』(白夜書房)を訳出、出版した前後の一九七〇年代半ばのことだったと思う。フェノッリオと同じ一九二二年生まれで一九七五年に惨殺されたパゾリーニについては、その評論二作の翻訳出版が滞っているものの、去年ようやく『愛しいひと』(青土社)を出して少しは借りが返せた。フリウーリ語の初期詩群『カザルサ詩集』上梓の目途もついた。フェノッリオについては今度が最後のチャンスかも知れない。不退転の決意で臨まねば、ジョニーとミルトンに申し訳がない。
《ジョニーは丘の上の小別荘の窓からおのれの町を観察していた。ドイツ軍の七重の網をかい潜って、はるか遠くの悲劇の都ローマから、思いがけなく不意に舞い戻ったのち、その彼を潜伏させるために家族がこの別荘を急遽借りたのだった。地元でのあの九月八日の光景、一個連隊まるごと兵営が、乗 員 不 足のたった二台のドイツ軍装甲車ごときに降伏したさまと、封印貨車でドイツへ流刑されるありさまを目の当たりにして、誰もが、家族も取り巻き連も、ジョニーが戻ってくることはないと思い込んでしまった。最良の場合でも、イタリア中部のどんな駅からでも出発したああした何本もの同じ封印貨車の一輌に詰め込まれていまごろはドイツに向かっていることだろう、と思われた。》
右の書出しで始まる『パルチザン・ジョニー』第一の遺稿は、全四〇章五三四ページである。第一章で見るように、汚い旋風みたいに生還したジョニーは、直ちに丘の上の小別荘で潜伏生活に入る。だが、落ち着かない。麓に下りて、やはり生還した従兄弟と会ったりしている。第二章以降を大急ぎで、しかも引用を交えながら、あらましを述べると、丘の娘との束の間の情事──
《彼はそんなにも間近にまじまじと丘の少女を見つめていたから、その眸の黄金のうすく散った碧玉を顕微鏡を覗くみたいに見ることができたのに、それでも彼女の声は幾重ものフィルターをとおしたかのように彼に届いた。「どう、よかった?」 彼女が吃った。「果てしなく。あなた……あなたってすっごく達者なのねえ。」しかしやがて彼は身を起こすと、叫んだ。「でもぼくはおのれが男だと感じない!」彼女は目を瞠った。「あなた、自分を傷つけてるわ……」なのになおもジョニーは、少女の言葉には聾で無関心に、いっそう大声で、くり返した。「ぼくはおのれが男だと感じない!」》。
《……その水音が響くだけだった。彼女が言った。「あたしが女でなかったなら、あたしは女になりたい。その次もまた女に。その次の次もまた女に。でもそれがだめだったら、あたしは青鷺になりたい。」それから歌った。「あたしがあなたといる瞬間はいま終わろうとしている」と、理由はないのに言わず語らずの言及をこめて。するとジョニーは彼女のセックスの意識によって襲われた。彼は彼女とともに、彼女の中にいた。そしてそれは、その日の午後じゅう彼が感じたと思ってきたような、彼女の外にある、抽象的な、霊みたいに宙に漂っているかも知れないものではなくて、具体的な低みにある、現実的なものであって、確認と所有の徴として、彼の手の愛撫を待っていた。そうして彼女は、ジョニーの仕事を巧みな最小限の動きで楽にしてやりながら、薔薇みたいにひらいていった。》
──英軍機の銃撃と橋爆撃、ジョニーはついに町へ下りて旧師、生き残った旧友たちと再会する。こうして徴兵忌避者、離散兵、脱走兵などの若者たちがかなりおおっぴらに町を出歩けば、当然、取締りを呼ぶ。やがて潜伏者たちの両親を憲兵が一斉逮捕する。自然発生的なデモ隊が憲兵隊舎を取り囲み、武力解放する。──
《ついに一人の少年が辛抱しきれなくなって、建物正面を狙って、鉄柵の上を掠めるように手榴弾を投げた。けれどもずっと手前に落ちて、庭の若い桜の木を直撃して赤い暈で包んだから、若木はその刹那、X線に照らしだされたかのように闇のなかに浮かび上がった。すると、隊舎の中二階から警告の機関銃が高めに一連射されて、球技場の遠くの石壁に当たって潰れた。銃弾は真っ白な埃のなかに凍って落ちた。》
──ジョニーの両親も当座の様子見に丘の上の小別荘に潜伏し、ジョニーは決然と出てゆく。
《最も高い丘々、その不動さにおいてできるかぎり彼を助けてくれるであろう父祖の地に向けて、黒ぐろとした風の渦巻きのなかを、男はその普通の人間の大きさにあるときに何と偉大なのだろうと感じながら、彼は発った。そして発った瞬間に、彼は権限が──死そのものもそれを剥奪することのない──イタリアの真の民衆の名において、あらゆる方法でファシズムに反対し、判決を下し、執行し、軍事的かつ民事的に決定する権限が、おのれに与えられたのを感じた。そんなにも大きな権力は酔わせるものであったけれども、しかしそうした権力を彼ジョニーが正当に行使してゆくという自覚のほうが果てしなく遙かに酔わせるものであった。
そして身体的にも彼はこんなにも男であったことはなかったし、ヘーラクレースのように風と大地を撓めながらゆくのだった。》
──ランゲの丘々を歩きとおすが、パルチザンに出会わない。ついに最も高い丘々の連なるランゲの外れ近くまで来てしまった。そこでジョニーは〈赤い星〉の部隊に合流し、初めての戦闘の洗礼を受ける。やがて掃蕩戦に本腰を入れはじめたナチ・ファシスト軍によってほぼ壊滅的な打撃を受ける。包囲網を脱したジョニーは沢と丘を彷徨い、ようやく〈青〉のパルチザン部隊に合流する。ここで友人たちと出会い、司令官ノルドの信頼をえる。小戦闘では多少の成果を見るが、ファシスト軍をやり過ごしてその帰途の最後の一台を襲う待ち伏せ攻撃では、軍曹を死なせてしまう。ジョニーの隊に残ったあとの兵はほとんどみな少年たちだ。季節は夏から冬へ冬から丘の上の真冬へと移ろう。それでも一時は英軍のパラシュート投下による物資補給を受けて、故郷の町アルバを北イタリアで初めて解放するが、二十三日間しか持たない。
秋から急速に冬の忍び寄る長雨のなかで、パルチザンの部隊は次々に丘々に撤退する。ジョニーの隊は川岸を守り、次いで農場の堀を守り、最後には塔を守って死闘を続けたのだが、……。まさに《アルバは一九四四年十月十日に二千人で奪取し、十一月二日に二百人で失った》のだった。
やがて英軍の無謀な白昼のパラシュート投下を機にドイツ軍の大掃蕩作戦が開始され、砲撃が大地を揺るがし、丘の上の村々は焼かれ、丘々に黒い煙が立ちのぼる。小広場に集められた穀物は泥濘にぶちまけられ、輜重車の車輪で泥のなかに鋤きこまれる──逃げたパルチザンと村人がたとえ生き残ってもこの冬を越せないように。
総崩れになったパルチザン部隊。ターナロ川、ベルボ川、ボールミダ川の間を、谷間の沢から丘の斜面、その頂から、中腹、また沢へと、ナチ・ファシスト軍の人間狩りを逃れて彷徨する。
何度も死地を逃れてたった一人生き残ったジョニーは〈ランガの牛舎〉にたどり着く。そこには死んだはずのエットレとピエッレが彼を待っていた。ランガの女主の婆もいれば、あの狼犬もいた。やがて病身のピエッレは麓の村の許嫁の家に匿われ、喉を患ったエットレのためにジョニーは薬を求めに深い霧のなかを出かける。その留守にファシスト軍の巡邏隊が農場を襲い、エットレとランガの婆を捕らえ、狼犬やすべての家畜、食料もろともアルバに連れ去る。
荒らされた無人の農場でジョニーは真冬を迎える。ジョニーだけではない、いまやランゲのすべての丘々でひとつの丘にひとりのパルチザンしか生き残れなかった。厩で奇妙な圧迫感に目覚めたジョニーが銃を手に転げ出てみると、あたり一面真っ白だった。雪だった。……。ついに突き止めたスパイ、言葉を交わし、撃ち殺すジョニー、エットレと交換するためのファシスト軍の捕虜、クリスマス、戻ってきた老婆、なにがしかを持ち寄る村人たち、ついに脱出してきた狼犬、……物語はなおも続く。


10

《ジョニーはますます腹を立てていた。あの赤い星はみな、初めのうちこそ数人の鳥打ち帽や鉄兜だけの特権だったのに、いまでは誰もが、大多数は義務みたいに赤い星を散りばめていた。しかもみなが笑みもなく、とはいえ苦情もいわずに赤い星を縫いつけていた。ファシストの斧に棒の権標に対するに、最も自然で申し分ない旗標と釣合い重りになるのだから、と。可笑しいのは赤い星の唯一の、あるいは最大の供給源はここいら一帯の村々の幼稚園のシスターたちだということだった。彼女たちはなにか悪感情と同時になにか慈愛深い入念さをこめて赤い星を製造した。だからシスターへの支払いを誤魔化したりひき延ばしたりは考えられないなら、彼女たちは恐ろしい債権者だと、マーリオ准尉が頷いた。》
《……。平和を愛するあまり心臓が彼のなかで嗚咽した、だから、二叉路で起こったことを彼は少ししか、あるいはまるっきり、見なかった。彼は夢のなかで見た、黄色い流線型の染みが右手から飛びかかってくるのを。瞬間、目をつぶり、トラックの横っ腹にそれが激突する音を聞いた。目をまた開くと、おのれの胸と平行にビオーンドの軽機関銃の鈍く光る銃身が、相手の車の粉々に砕けたフロントガラスに狙いを定めていて、男たちはすでに後ろからどすどすと地面に跳び下りていた。……。》──この突発事故で捕らえたドイツ軍少佐ゆえに、ドイツ軍の大規模な攻勢を呼ぶ。
『パルチザン・ジョニー』〔第二の遺稿〕の大きな特徴はその構成にある。

1.最初の冬(最終章の直前の章)/  2.最初の冬(最終章)
3.夏3 /             4.夏4 /       5.夏5
6.町1 /             7.町2 /       8.町3
9.町4
10.忍び寄る冬1 /       11.忍び寄る冬2 /  12.忍び寄る冬3
13.忍び寄る冬4 /       14.忍び寄る冬5 /  15.忍び寄る冬6
16.冬1 /           17.冬2 /      18.冬3
19.冬4 /           20.冬5 /      21.冬6
22.冬7 /           23.冬8 /      24. 終り1

──全二十四章二七七ページである。

夏が終われば、パルチザンの暮らしに秋はない、ただ長い忍び寄る冬だけがある、そして冬。数えてみると、最初の冬二、忍び寄る冬六、冬八と、冬だけで十六章、本書の大半を占める季節は冬である。フェノッリオがこの作品においていかに冬を重視していたかが、またパルチザンにとっていかに冬が大敵であったかがわかる。春もない。春は勝利の日と同じだけ遠い。


11(底本全集)

今回の翻訳の底本には一九七八年にエイナウディ出版社から刊行された『ベッペ・フェノッリオ全集』Beppe Fenoglio, OPERE , Giulio Einaudi editore s.p.a., Torino, 1978.を使用した。マリア・コルティの指導のもと、アルバのフェノッリオ文庫にある既刊書原稿およびすべての未発表原稿に厳密な文献学的考察を施し、校閲、網羅、定本出版したことにその特徴がある。
全体は三巻に分かたれ、第一巻に長編小説群、第二巻に中短編小説群、第三巻に散逸既刊未刊短編群、日記、戯曲、シナリオ草稿、童話、エピグラムを収める。
当然、第一巻は三分冊となり、第一分冊に『原Urパルチザン・ジョニー』、第二分冊に『パルチザン・ジョニー』〔第一の遺稿〕と〔第二の遺稿〕、第三分冊に『春の美神』〔第一の遺稿〕と〔第二稿〕/『長編小説の断章』/『私的な問題』〔第一の遺稿〕、〔第二の遺稿〕、〔第三稿(今回訳出した決定稿)〕を収めてある。
花野秀男
一九九八年十一月一日